いまやれること、それは私の見開きした
戦争の愚かさを次代に伝えること

  • 戦前、戦中、戦後を生きた信州人の聞き書き
    「私からの伝言」第3集
    長野県高齢者生活協同組合編より
  •  あの日の狂うような嘆きと怒りは
     いま、穏やかに静まり
     より深く、強くいだく「反戦」の思い
  •  これは昭和四十六年、私たち小さな町の家族会でつくった「やすくにのつづり」という本のなかにある手記の一部です。
     いつの間にか敗戦記念日が終戦記念日と言いかえられてきていて、それをあまり不思議とも思わなくなっていた戦後二十六年にこの本は出版されました。
     厚さ一・五センチ、巾十二センチ、重さ三百十グラム・紺色の表紙の中身は、つらさと口惜しさとと怒りと悲しみとがほとばしっています。戦争をうべなって(納得)などいません。
  • 『<野を超え、山を越え、コスモスの咲く当地へ来た>これは出征した主人からの第一信でした。
     昭和十七年八月三十一日、家族には行く先も告げず宇都宮の連隊から、ひそかにいづこともなく出発した暑い暑い日、私はいづこのはてに行ったやらわからない主人からの便りを赤ん坊を背に毎日待ちつづけていたのです。
     信州もぼつぼつ朝晩肌寒さの感じられる十月はじめのある日、待った待った便りがとどいたのです。”チチハル市陸軍病院内”と書いてありました。
    早速地図をひろげてみました。チチハル市は満州の果てにありました。「野を超え、山を越え、コスモスの咲く当地に来た」。
     涙でくもって読めなくなる十行ほどの文字を喰いいるようになんべん読み返したことでしょう。まだ感傷も可憐さもあったあの頃の可愛想な可愛想な私でした。』

    『出征は忘れもされない昭和二十年三月十八日、お彼岸の入りの日でした。「彼岸だ、おれも大好きだ、うどんをつくってくれないか」とのことでした。その食べ方は文句に現すことのできないほどです。「あゝうまかった!!」といったとたん、大きな涙をぼろぼろ落としました。何を考えたのでしょう。夫はそのままかえってきませんでした.』

    『九月十六日には村長さんに連れられて善光寺へ英霊の迎えに行きました。本堂は六百何体の英霊とその家族の人たちでいっぱいでした。
     御供養も終わり、六百何体かの英霊は一人一人家族の胸に抱かれて生まれ故郷へ帰ったのです。夫は校庭で村の皆様に迎えていただきました。どなた様のお言葉もありがたかったのですが、私はただ涙が流れるばかりでした。
     夫が家に帰って、お悔やみにきてくれる人たちもひけて家中だけになったとき、義母がどうしても遺骨の箱の中を改めたいと言い出し、座敷の奥で子供たちも呼んで箱をあけました。幾重にもなっていました。だんだん小さな箱になり最後に小さい布袋が出てきました。私の人差し指位の大きさになった夫は、その袋の中にいました。』

    『夏蚕も六十グラム掃立ててありました。挨拶においで下さる人様には涙をみせまいと思いながらもついー、蚕棚につかまっては泣き子供の寝顔をみては泣きつづけた毎日でした。』

  • 一片の紙きれによって征き、一片の紙きれによって息子の戦死を知らされたーとなげく父親。
     戦争とは何と不公平なものなのでしょうーと悲しむ夫を失った妻、戦死の通知をもらったときは「泣いても泣いても泣ききれなかった」といい「死ぬはど悲しく三日位食事がのどを通らなかった」と回顧し「心が乱れに乱れた」「夫を恨んだ」と正直に書き記されたものには戦争の生んだ悲劇をあらためて思い知らされました。

     戦地におもむく父や夫、兄弟を、その姿が見えなくなるまで見送った村境。南佐久郡南相木村のこの地に、村人は平和への悲願を込めて昭和62年に建立された「不戦の倭」。佐々木さんはときおりここを訪ずれてその思いをかみしめる。
     そして二十六年経った今その戦死を「全く犬死にであった」といいきる遺族、「今生きていてくれたらと思わない日はない」と嘆き「戦争は絶対にいけない」と結ぶ声をおたがいもう一度かみしめたいのです。
     夫が戦死したとき、日本中の男が、いや世界中の男が目ざわりで憎らしくて「男なんてみんな死んでしまえばいい!」と思ったというAさん、外泊許可で帰ってきこ夫は親類や親兄弟とのつきあいでゆっくりも出来ない、せめて見送りをと願ったが舅に一喝されてしまう、ただ忙しくきていってしまった夫の、もう温もりも何も残っていないねまきを抱いてさんざん泣いたというBさん、靖国神社で生き残った兵士の戦友同士が逢ってお互いの肩を抱き背をたたき合って泣いている姿をみて「あの衆は生きてけえってきただなあ、おらあみたくでもねえ」とブイッと横をむいてしまったというCさんの話、夫よ、ダルマになってでも帰ってきてください、その願いもむなしくあの人は戦死しました、とうつろな目をむけたDさん。「万事が終わりました。戦死ということをはっきり告げられた時、もう私の待つことは終わったのです」と書き結んだEさん。
     本が出来てからさらに四十年近くたって、折々に開く本、もう暗記するほど読んだ<やすくにのつづり>です。あのときもちなれないペンをもって一生けんめい思いを寄せてくださった一五二人のかたたち、ずいぶんたくさんの方が亡くなられてしまっています。
     たまにお元気な方にお会いすると「今は幸せでー」とあのかつてのはげしい怒りを、狂うような声でぶつけた口調は、おだやかなものになっているのです。けれどそれは、平和だからいえること、戦争だけは反対してください、がんばってくださいよ、とエールを送ってくれます。
     がんばろうということがどういうことか、私もそのとき、逢ったこともない義兄のことと舅姑(しゅうと)たちのことをこう綴りました。
  • 『  心弱くある日還らぬ子をなげき涙したまふ舅(ちち)をみにけり

       もう生きてはゐまいがと姑(はは)の言ひながら
       義兄(あに)の着物の虫干しをする

     今日は義兄の法事の日である。生きていれば義兄は五十二歳の働き盛り、いま私たちの経営している旅館の主旅館の主(あるじ)としてきっとすばらしい力を発揮していたことだろう。義兄は生業の旅館のあとをつぐべく、高等科を卒えただけで上京、板前の修業に入ったのだそうだ。宇都宮に教育召集を受け、やがて戦争がしき熾烈化してくると臨時召集を受けて神戸港から転々と満州の樺林(かばりん)へいき、それこそ身を挺して國のためにと戦ったのである。終戦の知らせをうけると捕虜になるのがいやさに、五、六人の部下と部隊をはなれたとか、あのとき残っていさえすれば助かったのにと、その時まで一緒にいて還ってきた同僚たちは言ってくれる。それが運命というものだろうが、今は亡き舅も、そして現在七十七歳の姑も、よく「あの子は一本気だったからなぁ、残っていればよかっただに」と折々の話題にぐちとなってのばるのである。
     行方不明の義兄には、戦死の公報はいつになっても入らなかった。一応のけじめにと、こちらから申し出て戦死という手続きをとった義兄、その頃そういうことが一つの國の方策であったにしても何か割り切れない、やりどころのない心で手続きをした私たちであった。
     なにも入っていない骨箱が届いた日を、義兄の昇天の日ときめて、姑は香を絶やすことがない。その義兄にやっと叙勲がきまり勲章が届いた。

       掌(てのひら)の上に小さき勲章をまさぐりつ姑のただ泣き給ふ

     いまこうしてみると、義兄にかかわるときの舅や姑は泣くことばかりが多かったことに気づく。戦争とは何と悲惨なものかと、しみじみ親の嘆きの深さを思い知る私である。』
  • いま、私にやれること、それは戦争というもののおろかさを次代に伝えていくことだと思います。どんな小さなことでもいい、私の体験したこと、いろいろ聞いたお話など、ためらわずにおしゃべりしていきたいと心新たに思ったことでした。
    二〇〇七年十月 記
  • 佐々木 都
    昭和3年(1928)長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)生まれ 80歳
    自らも16歳で兵器工場に動員させられた体験をもつことから旅舘の女将をするかたわら平和活動に取り組む
    どんな小さなことがらでも始めようと地域の茶の間として、毎月1回さまざまなことを学びあう「しあわせ教室」を主宰
    同地で長男と2人事らし、子ども2人 孫4人